宇宙ショーへようこそ

要旨:
・「小学生の夏休みを大人に追体験させる」ということに特化した作りには感心させられる。
・ただ、それゆえにこの作品は「子供向け」ではない。
・だから、この「夏休み中の午前」に不入りの理由もわかる。


マスナリさん・倉田さん・ベサメときたらまぁ見ざるを得ないということで、22日朝9時05分の上映を見てきました。
しかし、1日1回の上映にもかかわらず、自分・友達・女性ペアの4人しか観客がおらず。
ほぼ貸し切り状態で見てきました。


「夏休みを存分に楽しむ、かわいい・カッコいい小学生を描く」「その小学生が楽しむ世界に、見てる大人を引き込む」という製作者の意図が見え、しかもそれがきちんと達成されている。しかもそれが個人的なツボに入っている、ということでまぁこりゃ高評価だな、と思うことしきりでして。素晴らしい。


「見てる大人を引き込む」ということについてはもうちょっと詳しく言述をすると、「夏休みを存分に楽しむ小学生を描く」だけならば、別に1週間夏合宿をするだけでもいいのですね。でもそれだと大人は退屈する。なぜかというと、「友達と一緒に川遊び・昆虫採集・料理を作りあったりとかする・買い物とかする」とかいう行動に対して、大人は子供ほど魅力を感じてないから。どうしても子供の目線では見れなくなる。
じゃぁどうするか。大人でも魅力的に見えるものをその「夏合宿」に据えればよい。それが「宇宙ショー」だったわけであるとね。これだと大人にも魅力的で、子供と同じように新鮮な目で一緒に楽しむことができるのであると。ただし、これを達成するにはには「子供だましではない」宇宙ショーの魅力を作り上げることが必須であるのだけど、これはさすがにべサメとマスナリさん。難なく達成しているので心配はない。ということでまぁこれはこの点で達成している。問題なし、となる。


まぁそりゃここまでやられると、「小学生時代なんぞとうに過ぎてしまった」大人としては心を打たれないわけにはいかない。
最後にちゃんと「各家庭の車でそれぞれの家路につく」場面が挿入されているのも憎い。「あぁ、遊びがおわっちゃう…」っていうあの疲れにも似た充実感こそが、夏休みやってる、って実感を生むもんだったし。あそこでうるっときちゃった。
このまえ課内でビーチパーティしたときもそれと似た状況なんですけど、やっぱり違うもんなぁ。職場の仲間と友達だと。あれはやっぱりあの時代特有のもんなんだ。


で、残念ながらこの映画は致命的に子供には向かないと思う。なぜか。子供はおそらく彼ら・彼女らの体験を共有できないから。
なぜか。子供は子供で「夏休みに面白いことがあるから」だ。友達と田舎に行ったり山に行ったら宇宙ショー見に行くに匹敵するぐらい楽しいことがある。そんな状況でなぜスクリーンの中で楽しんでいる同世代をみなきゃならないのか。それを考えるとまぁこの「夏休み序盤朝の不入り」は説明できる。たんに知名度の問題もあろうけど、多分知名度以外のところが大きく作用している。


そして、この映画のターゲットである「ノスタルジーを求めている大人」の数は、結構少ない。
大体の人間は20代後半〜30代前半には、結婚し子供が生まれ、もうノスタルジーを求めることが難しい、また子供の目線を通してそれを見ることができるようになる人もいるだろうから。
となると、「ノスタルジーを求める大人」とはどの層か。「独身の20代以上」となる。これはかなりニッチであると。こりゃ売れんわとなる。(独身なので、まとまった身入りが期待できないし。)


…まぁこれを家族で見に来てる世帯があったらどん引きだなと思ったんですよね初めに。うん。
だから上記のような解析は妥当だと思うんです。

借りぐらしのアリエッティ

さて、アリエッティ
なんでも監督が若手らしくて、その監督のお手並みをご披露という意味合いもある、今回の公開だったらしい。
その点でいえばまぁ「駿が死んでも、表面上変わらぬジブリをお見せできます!」ということを証明することはできたのかもしれないと思うところはある。そこにはまぁ脱帽はする。技術的な層は厚い。それは見られたのは良かった。
(水滴の表現はおもしろかったけど。確かにああなるとは思う。)
しかし、「それだけのこと」を確認したくて、1800円を払った覚えはない。以下愚痴になるけど、要旨は「それ以外は何も見るべきものがなかった」ということです。技術披露だけならなにも劇場じゃなくてもできる。そういう意味では何も得られなかった今回のアリエッティ観賞でした。


まずまぁ、思うのは「テーマが見えてこない」ことか。
作品を通して、伝えたいテーマが見えてこないのではなく「ない」のではないか?とすら思うところ。「とりあえず多摩のほうに、こういう種族が生きてて、こう過ごしてたら面白いだろうな」ぐらいのことのみを考えて、作品作りをしたのではないのかと思う。それほどまでに思想は見えてこない。そして思想のない作品はなくてもよい。
※「身勝手な行動で小人の住処を追った人間の罪深さ」がテーマです、ってんならもっと分かりやすくしてほしかった。同様に、「異種間の友情は成立するよ」とかでも。ともかく、「見えてこない」のだ。
※わざわざ映画にするくらいなんだから、テーマぐらいあってほしいー、という自分の思いが先行しているのだろうが。


「キャラの心情が読めない」のも気持ち悪いところ。
特に人間側にこの傾向が顕著で、
「ハルさんはなぜああまで『小人を捕えたい』願望が強かったのか」
「なぜ男の子は初めて顔を合わせたところで『君たちの種族はいずれ滅びる運命なんだよ』とか言うのか」
「ミーアっていつの間に懐いたの?」
「おばあさんの小人に対するスタンスは?」
と、疑問は絶えず。特に上2名。
なんかあらかじめ決まっていたお話を滞りなく進めるために、人間側が脚本に動かされている、という感じがして、なんだか気持ち悪く感じました。なんかキャラ全般に血が通っていない印象。
あと、小人側にも。
「お父さんは家族の他に小人が居るのを知ってた風であるのに、なぜ家族には知らせていなかったのか」
とか。まぁここはあえて描かなかっただけなのかもしれませんけど。
ともかく、きちんとした「生き物」としてキャラを描いていたのかは疑問。


「設定は掘り込めていますか?」という指摘もある。
疑問に思ったのは小人の寿命とか、家の中のものが全部がお父さんないしは先祖の自前のものなのか、とかまぁそういうところ。
人間との交流はないはずなのに何故現代語を喋れるのかとか、あと「アリエッティ」ていう名前とか。日本語喋るのに英名なんかよとか。まぁいろいろ。全部が全部しっかりしてないといけないことはないんですけど、ファジーにもほどがある。
その辺が人間を描けていないことにもつながってくるのかもしれませんが。


まぁとりあえず、以上の理由で、ダメだったな、と感じます。絵はきれいだった。それだけ。

日本気象協会「tenki.jp」がtwitterの情報を地図上に投影するサービ

ついにやってくれたか、という感じ。つかWNIが真っ先に手を上げるもんかと思ってたら協会だった。これは人々の「気持ち」と天気、という命題に一番(まぁ微妙にずれているところはあるにしても)興味を持っていたのはWNIである、という認識があったため。
というか協会がやる気なさすぎに見えたのもある。面接に行った時の感想もこれには絡んできているのだけども。


さて、一席ぶつ。まず大前提として、この世の中にある「情報」とは、人に使われるのが前提であるという考えに立つことにする。
そして、気象情報というのは、「ここの天気がこうだ」という事実だけでは「生きた情報」足り得ない。例えば、我々にとって「ルワンダの今の天気は雨」というのは、使えない情報である。使われない情報は、人々の気持ちが入る余地がなく、これは日本に住んでいる者にとっては「死んだ情報」となる。
日本の気象情報についても同じである。提供されている気象情報のほとんどは、「自分に関係ない場所」でのものであるという点では先述のルワンダとそう大差はない。よって、死んだ情報ではあるし、面白味があるとはあまり言えない。ただ、その情報は「自分でないが、誰かの役に立つ」「誰かには生かしてもらえる」のは事実なので、延々提供されているわけである。すべての情報が「誰かにとっては生きた情報」になるのは間違いない。それならばよし、の姿勢で現行の気象情報の提供はなされている。(自分を含め天気マニアなんかは、自分のいないところの情報にも興味があったりするので、そういう意味では自分に関係のない場所の情報が「生きる」ことにはなるが、それはごく例外の事象であることを注記する。)
と、いうことは、場所と天気だけではその情報は生きていないということ。それに生命を与えうるものが、「気持ち」なのではないか、そう思うのである。(だから、協会のサービスが「みんなの気持ち」なのである。別に自分は協会の人間ではないけれども。)無機質な、客観情報に、主観、つまり天気に関する気持ちが付加されれば、その情報はたちどころに「生きた情報」となりえるのである。


気象情報は、「今日はこんな天気だな」と人々によって「思われる」ことで生命を得る。このサービスでは、気象情報が生命を得た状態のままで発信される。これほど素晴らしいことはない。これが為されるサービスがあってほしかったが、協会の手によってなされようとしている。これほど素晴らしいことがあろうか。どんどんこの動きについては協会は大々的に広報をかけてほしい。そうすることが「天気をもっと楽しくする」ことへつながるはずで、それから、もっと人々に興味を持って空を見上げてもらえるはずであると。


さて、 #tnk がこの動きに噛むかもしれない。しかし、この動きには首肯できない。なぜなら、 #tnk は「地点・天気」のみを発信させることに特化している。使い方(http://bit.ly/7BwuRO)を見ると『端的で分かりやすい表現』『「晴れると良いな」というたぐいの希望も、原則はご遠慮ください。』と明記されている。現行の #tnk は、完全に協会とは逆行している。主観によって生きている情報を、あえて客観化させることで殺しているのである。(もちろん客観化させることで役に立つ情報があるのも事実ではある。しかしこれはそれにはあたらない。)そうした考えを持った集団の参入は、この「気持ちを伝える」協会の試みまで殺してしまう可能性があることを指摘しておく。 #tnk による客観化された「死んだ」情報の洪水は「生きた」情報をも腐らせてしまうという危惧を持っている。もし参入するのであれば #tnkには方針を変更してほしい。それくらいに相容れないものを今は感じるのが本音だ。同じ気象情報だといっても種類が水と油ぐらいに違うことを自覚すべきである。


現在の天気を把握するのであれば、気象衛星とレーダーで大まかなところを把握できる。「客観に限りなく近づけた情報」のみを地図上に投影することは、現行のリモートセンシング技術でもできることなのである。そもそも「地点・天気」のみを地図上に投影することは、WNIが2年以上前から携帯で行っていることでもある。(これはこれで、意義のあることだとは思う。メッシュが非常に細かいというメリットがあるため。)これが、 #tnk に対して自分がずっと苦言を呈している理由でもある。

今日の新聞を読む

口蹄疫の話についての社説の要旨が
「沖縄に及ぶとまずいんで、ちゃんとやってくださいね!」
という話であることについて、
「あぁ。なんか断絶があるなぁ。」と思うところではございます。

沖縄の「反日」構造ってのは面白いなぁと

思う。
まぁ反日が金を生むんだから継続されるのは分かるのだけど。
なんかもっと前向きに金を生む方向性はないのかと。
よし!お前ら税金で沖縄を肥やせ!そしたら反日もやむ!
…というのは全然今の構造と変わってないのでダメですね。ええ。


しかし「ここに居続ける」=「内地が怖くなる」つーのは分かる気がする。
それはTVや新聞から流れる情報が、それとなくそう仕向けている感じで。
あと、「内地」って言っちゃうねやっぱりと。
「沖縄以外の日本」を話すときに、便利な言葉がないんだわね。
というか「○○以外の日本の地域すべて」を話さざるを得ない局面って北海道と沖縄以外に存在するのか?そもそも。